おいしいパンのつくりかた
ケミカル飲料(塩見久遠)
「お箸の使い方、すっかり上手になりましたね」
眼鏡の彼からそう言われて、自分の右手に目を遣った。
細長い木の棒が二本。初めて見た時は不便極まりないと感じたものだ。しかし、慣れていくうちに、その考えは変化していった。食物を挟む、運ぶ、切る、潰す等々、大体のことは操作できてしまうのだから、むしろ便利なものだと気付いたのだ。
「ハイ、オデンノ卵ダッテ、自分デ取レマス」
「クラさんは言葉もそうですけど、色んなことの上達速度が凄まじいですよね」
「確かに。バッテン箸してたと思ったら、いつの間にか綺麗に使ってましたもんね」
「オ二人ノコト、オ手本ニシマシタ」
「嬉しいこと言ってくれますねぇ」
そんなやりとりをしながら、目の前の夕餉が冷めないうちに箸を進める。
本日の献立は、主菜に鮭の塩焼き、副菜はひじきの煮物、ほうれん草の胡麻和え、厚揚げのキノコ餡かけ、汁物は具沢山の豚汁。そして、主食はホカホカと湯気を立てる白米。見事なまでの和食である。
今でこそ馴染みの味となっているが、和食というものも自分にとっては未知の食物だった。生卵や納豆といった今でも手を出しにくいものはあるが、良き隣人達がいなければ食わず嫌いのままでいたものがもっと沢山あったことだろう。
そんなことをぼんやりと思い返していると、眼鏡の彼がこう言った。
「お箸と言えばですけど、味噌とか醤油にもすっかり慣れちゃいましたよね」
こちらの考えていることが伝わってしまったのかと思うほどのタイミングだった。しかしそこから続けられたのは、
「でも、故郷の味というか、慣れた食べ物が恋しくなることはありませんか?」
という言葉だった。
「食ベモノ、恋シイトハ?」
恋しいとは人や動物など生き物に向ける感情ではなかっただろうか。馴染みのない言葉の使い方の意味を探ろうとする。しかし、見兼ねた眼鏡の彼が、
「うーん、懐かしいものを食べたくなると言えばいいでしょうか」
と噛み砕いて説明してくれた。なるほど、懐かしさを感じる食べ物のことか。そうして意味は理解できたのだが、自分にとってはどんなものが該当するのか、それが思い浮かんでこない。
「懐カシイ食ベモノ…?」
考えるだけではなく口にしてみるも、続きは出てこない。七三分けの彼が
「クラさんはどんなものを食べて生活していたんです?」
と助け船を出してくれるが、答えることがどうにも難しい。
自分は何を食べて生きていたのだろうか。いざ問われると分からなくなってしまう。それでも必死に記憶を手繰り寄せると、漸くそれらしきものが浮かんできた。
「……スープ、パン」
それらを口にしたものの、やはりこれ以上続けることが出来なかった。すると、隣人達はすかさずフォローをしてくれた。
「なるほど。スープにはどんなものを入れていましたか?」
「ンー、野菜ト豆デスネ」
「スープとパン以外に、メインになるものはありました?」
「鳥トカ羊トカ食ベテマシタ」
「チーズとか乳製品は馴染みあります?」
「ソウデスネ。チーズ、長ク保存デキマス。果物モ干シテマシタ」
質問をされると、遠い記憶にも焦点を当てやすくなった。そのおかげで、先程よりも記憶を掘り起こすのが容易になった。
とはいえ、それらが“恋しく”なるのかというと、そうでもない。勿論、拒否の気持ちがあるわけではない。ただ、なんとしてもそれらを口にしたいかといえば、是とは言い難いのだ。
しかし、そうは思っていない人物がいた。
「ジビエっぽい感じなんですかね?」
「どうなんでしょう。映画とかで見るような食事のイメージも、実際とは違うだろうしねぇ…」
そう。目の前の二人である。日頃から自分を気遣ってくれる隣人達のことだ。特に、食事に関しては、細やか過ぎるほどの配慮をしてくれるのだから、当然といえば当然かもしれない。
それでも、彼らと過ごした食卓を振り返ってみても、不平不満を申し出たい場面など見当たらないのだ。だからこそ、
「私、ヨシダサンノご飯、美味シイ。好キデスヨ」
この言葉に偽りはなかった。
~後日
「今日は洋食中心にしてみました」
眼鏡の彼は伏し目ながらにそう言った。食卓に並んでいるのは、スープやソーセージ、ハム、サラダにパン。それからチーズも数種類。後ろに控えているのは赤ワインのボトルだろうか。
確かに、日頃彼が振舞ってくれる献立とは大きく異なった顔触れだ。
七三分けの彼は腰を下ろしながら、
「なんだかビールが似合いそうなメニューですね」
なんてコメントをしていた。
和食に比べたら遥かに馴染みがある。ただ、新たな土地で出会ったからだろうか。どことなく不思議な、なんとも形容し難い感覚も心の隅には存在していた。
いつもと違う食卓、違う雰囲気。それでも、三人揃って、「いただきます」を言う。
口に運んだトマトスープは僅かな酸味がアクセントになっていて、胃が温まっていくのを感じられた。ソーセージの脂っぽさと塩気はシャキシャキとしたレタスが中和してくれた。ライ麦パンにチーズやハムを乗せると唾液腺が刺激されるようだった。
とても美味しい。そう感じた。
ただ、それらは新鮮な味わいだった。
では、自分にとっての「懐かしい味」とはなんなのだろう。
「…クラさん?」
ふと顔を上げると、二人が心配そうにこちらを見ていた。
「ゴメンナサイ。トッテモ、美味シイデス」
慌ててそう答えた。決して嘘ではない。実際、目の前の食事はどれも美味しいのだから。しかし、隣人達はそう思ってくれないようだ。
「アノ…」
信じてもらいたくて、言葉を続けたいのに、口から出てくるのは呼気ばかりだ。吐く息で袋を膨らますように焦りが募っていくのを感じるが、だからといって状況は進展しない。
「クラさん、困らせちゃってすみません」
眼鏡の彼のそんな言葉に驚いて顔を上げると、目が合った。その時、彼の眉毛がいつもよりも下がっていることに気付いた。
「ヨシダサン、謝ル、必要ナイデス」
「いえ、押しつけがましかったかなって」
「ソンナコトハ…」
二人して無理やり言葉を続けようとするものの、顔は俯いていくばかりだ。そうして訪れたのは気まずい沈黙だった。
「あのー、お二人ともなんかすれ違ってません?」
重苦しい空気はそんな言葉とともに、やんわりと断ち切られた。
「すれ違いというと?」
眼鏡の彼は首を傾げながら、発言の主の方を向いた。
「うーん、俺から見てですけどね、吉田さんはクラさんが嫌がることをしたと思ってる、クラさんは吉田さんを困らせてると思ってる、っていう感じでしょうか?どっちも別に怒ったり気を悪くしたりってことはなさそうですが、その辺りを掛け違えてませんかね」
七三分けの彼の発言を受けて、二人して顔を見合わせてしまった。
そうなのだろうか。もし、そうなのであれば、尚更黙り込んでいるわけにはいかない。細く息を吐いてから、思い切って口を開いた。
「私ガ考エル、シテタ、昔ハ、食事ノ時、ドウシテイタノカ、デス」
「そうだったんですね。バッタもん食わされて困っているのかと…」
「バッタモン……?」
「えっと、偽物っぽいっていうことです」
「ナルホド」
自分の言葉を眼鏡の彼は意外そうな表情をしながらも受け取ってくれた。互いに、「勘違いしちゃってごめんね」「コチラコソ」なんてぺこぺこと頭を下げ合う。
それを見て、七三分けの彼は「誤解も解けたところで」なんて前置きをしてから更に続けた。
「実際のところ、味はどうなんですか?昔の食事と比べてみて」
「ソウデスネ…コンナニ美味シイ、ジャナイデス」
「もう少し詳しく聞いても?」
「アー、塩ノ味、ホトンドデス。ソレト、ハーブ」
「そりゃそうですよね。顆粒コンソメとかなかったですもんね」
「複雑ナ味、時間ヲ掛ケテ作ルモノ。私ノ生活ニハ、ナカッタデス。ソレニ、食ベ物ニ優劣ヲ付ケルコト、教エニ反シマス」
それから考えていたこと、感じていたことを説明した。
懐かしさを感じる味、というものにそもそもピンと来ていないこと。日々の糧に感謝はすれど、それ自体に楽しみを見出していたわけではないこと。などなど。
自分の日本語能力では到底説明しきれなかったが、先程まで膨れ上がっていた焦燥感は消えており、時間を掛けて言葉を紡ぐことができた。
どれだけ喋っていたのか分からない。大した時間ではなかったと思うが、口の中はカラカラに乾いていた。
こちらが口を閉じると、今度は眼鏡の彼が口を開いた。
「なんといいましょうか……クラさんはこの街に来てから色んな食べ物と出会ったでしょう?初めての食べ方もあれば、初めての食材とか調味料も沢山あったと思います」
慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと話す彼の声に耳を傾け続けた。それは七三分けの彼も同様だった。
「僕らと一緒に食事をする時にもありましたよね。そういう時って、うーん、言い方がおこがましいんですけど、僕らがこれってこうですよって教えることが多かったと思うんです」
実際に彼らから教えてもらったことは多い。それを不快に思ったことはないのだが、眼鏡の彼にとっては他に思うところがあるようだ。
「だけど、貴方は教わるだけの子どもではないし、いくら今の生活圏がシンヨコだからって言っても、そこに寄せ過ぎなくてもいいと思うんです。……だからですね、えっと、クラさんは元々馴染んでいた食事とか生活とか、そういうものを求めたくなることはないのかなって。それが気になっていて、だからなんというかお節介ではありますが、クラさんに馴染みのある食事を作れたらいいかもなって…」
彼はそう言って、頬を指先で掻いた。そして、「先走っちゃって、ごめんね」とも。
「ヨシダサン、アリガトウゴザイマス。スゴク、嬉シイデス」
彼の気遣いには感謝こそすれ、疎ましいと感じることはなかった。その気持ちをそのまま伝えると、
「それなら良かったです」
と、いつものように口角を緩ませて笑った。それから咳払いを一つしたかと思えば、こうも続けた。
「それとですね、単純に、クラさんがどんなものを食べて生活していたのか、それが知りたいって気持ちもあったんです。だから、貴方が嫌じゃない範囲で教えてもらえたら嬉しいです」
と。
そうして、二人から質問をされつつ、当時の食事事情について話した。ただ、当時といっても貧富や階級など格差は大きく、一括りにするのは難しかった。また、自分の生活基盤は教会だったため、自分にとって馴染みのあるものが果たして一般的かどうかは自信が持てなかった。しかし、二人にとって重要なのは当時の事情の真偽ではなく、自分が食べていたものを知ることらしかった。
「話を聞いてると、完全に再現するのは難しいでしょうけど、今でも入手できるものも結構ありそうですね」
「本当デスカ?」
「まぁ、今手に入れられるのは品種改良されたものがほとんどでしょうが」
「そうなんですよね…似て非なるものほど気持ち悪く感じるって言いますし、そう考えると、クラさん的には微妙な感じになっちゃいますかね」
「ンー、ヤッテミル、シタラ、分カリマス!」
「それもそうですね」
そんなこんなで、話は凡そまとまった。「あの頃の味」を口にした時、自分は何か思うものがあるのだろうか。
そんなことに思いを馳せていると、二人の会話がふと耳に入ってきた。
「僕としては主食ってやっぱり大事だと思うんですよ。お米が美味しいと幸せですし。ってすると、パンに力を入れたいところですね」
「それは言えてるかも。でも、パンって作るの大変ですよね。小麦とかバターとかめっちゃ使うイメージがあるんですが」
「三木さんはパンって作ったことあります?」
「いや、売ったことはあるんですけどね…」
とても、二人らしいと思う。
現代ではパン屋が沢山あり、色んな種類のものを楽しめる。当時もパン焼きを生業としている者はいたが、教会においては自分たちで作ることも多かった。かく言う自分も、パン生地を捏ね、竈で焼いた回数は数えきれない。
膨らんだパン生地や温かさを思い出したところで、妙案を思いついた。きっと二人ならば受け入れてくれるだろう。
話し合っている二人に呼びかけると、同時にこちらを振り返った。ばっちり目があったところで、
「デハ、パンを一緒ニ作ル、シマセンカ?」
こう提案した。すると二人は顔を見合わせてから、
「やってみましょう」
「是非」
と賛同してくれた。
~後日
「ソレデハ、始メマショウ」
目の前には近所のスーパーで購入してきた薄力粉や強力粉、ドライイーストなどが並んでいる。
粉を計量し、篩に掛ける。すると、アルミ製のボウルに真っ白な粉が降り積もっていく。そうしている間に、別のボウルにドライイーストとビールを投入し、混ぜ合わせる。濁った茶色い液体は薄く泡立ち、ビールの香ばしさとイースト菌の少し酸っぱい匂いを漂わせていた。そこに蜂蜜とぬるま湯を注げば、小麦粉を受け入れる準備は完成だ。
数回に分けて、篩っておいた小麦粉を投入する。その都度、小麦粉の白が水気を纏っては茶色く染まっていく。木べらを動かすと、茶色の水玉が割れて、ぽふんと音を立てて白い粉が舞う。生地がまとまったら、手に打ち粉をしてから捏ね始める。すると、水気を含んでいなかった部分がこれまた、ぽふんと音を立てて粉を吹き出す。
それを繰り返していると、べたべたしていた生地が徐々に艶やかさを増し、丸みを帯びていく。それと同時に、ほんのりとした熱も発し出す。心地よい熱を感じつつ、パン生地はこれほど温かっただろうかと首を傾げたところで、あの頃よりも自分の体温が低いのだと思い至った。
綺麗に丸まったパン生地にオリーブオイルを塗り、ボウルに戻す。湿らせた布巾で覆い、炬燵の中へ滑り込ませた。片付けなどはあれど、ここで一度休憩を挟むことにした。
そう。パンと言えば、イースト菌の発酵を待つ必要があるのだ。一次発酵には60分前後、二次発酵には20分ほど掛かる。
これ以降、幾度も一緒にパンを作ることになったのだが、この時間はいつの日も他愛もないおしゃべりに興じた。手を止めて茶を飲んだり、第二弾のパン生地の仕込みを始めたり、猫と戯れたり、そんな自由気ままな時間だった。
取り上げる話題は、18~19世紀のレシピで再現したいものは思いつくか、あの食材は現代で言うところの何に該当するのか、どこかで入手可能なものか、などなど。それ以外にも食にまつわる話題は尽きることがなかった。
例えば、こんな話である。
「そういえば、吉田さんって出身は関西でしたよね?こっちに来て食べ物のことで困りませんでした?」
「そうだなぁ…お出汁の味が違うとか、粉物をあんまり食べないとか、その辺は困るというか困惑したかな。なんというか、同じ国にいるのに文化が違うって感じて驚いたよ」
「やっぱり食べるものの違いって大きいんですね。俺は余所で暮らしたことがないから、あんまし分かんないな。まぁ、一部の変なものを除けば、特に変わったものはないでしょうから、どこに行っても気になんないかもしんないですね」
吉田の話を珍しそうに聞いていた三木がそう答えると、吉田は首を横に振った。
「三木さん、おでんにちくわぶを入れるのは結構限られた地域の人だけですよ」
「えっ?!」
吉田の発言に眼を丸くする三木を他所に、吉田はこうも続けた。
「焼売もあっちこっちで売ってないし、ホッピーだってそれほど馴染みはありませんよ。あと、成城石井もまいばすけっとも僕はこっちに来て初めて知りましたからね」
これらの発言を耳にした三木は、
「マジか…俺の職場が…全国共通だと思ってたのに……」
と肩を落としていた。
「ミキサン、コドモの頃、何ヲ食ベテイマシタカ?」
「…食事は祖母が作ってくれていましたよ。あぁ、でも、高校生くらいからですかね。迷惑掛けたくなくて、自分で買うことが増えたなぁ。スーパーとかコンビニで売ってるんですよ。安くてでっかい、ハイカロリーなやつ」
三木は粉だらけの手を空中で動かして、輪を描いた。一体どんな食べ物なのだろう。そう思っていると、オーブンの準備を終えて戻ってきた吉田が話に加わった。
「三木さんと事情は違うだろうけど、僕も食べてたな。あれって本当にカロリーすごいよね。今じゃ胃がもたれちゃうよ」
そこまで言われるものが一体何なのか。興味をそそられた。
「ドンナ食べ物デスカ?」
「そうですね。パンが多いんですけど、今度買ってみますか」
「ゼヒ!」
「…三人で分けっこにしましょうね」
この時点で吉田の体重は二㎏ほど増加していたらしい。度重なる試作が原因であることは火を見るよりも明らかだった。それでも、試作を止めようとしないあたり、彼は凝り性であり、同時に自分のことを気に掛けてくれているのだと、そう思った。
「パンって小麦粉の塊ではあると思ってましたけど、自分で作ってみると、なんというかこう、すごいですね」
計量にもすっかり慣れた頃、小麦粉を篩いながら三木がしみじみとそう言った。
「そうだね。市販のものは更にバターとかお砂糖とかたっぷり入ってるんだもんね」
「アノ頃ハ、砂糖、贅沢ナモノデシタ」
「そういや、歴史の授業で習ったなぁ。クラさんが教えてくれたパンは保存食ですか?」
「保存スルパン、モット焼ク、スルデス。コレハ普段食ベルパン。アト、病気ノ人ニモ食ベテモラウ、シテマシタ」
「へぇ、栄養に優れてるってことです?」
「ハイ」
「それでいて腹持ちがいいんだから、大したものですね」
吉田は吉田で、粉を篩っていた。試作を繰り返すうちに、アレンジにも興味が出てきたと先日口にしていた。そんな彼はきめ細やかな小麦粉を見つめながら、
「お二人とも、この生地に入れるんだったら、レーズンとナッツ、どっちが良いと思います?」
と真剣な口調でそう問うてきた。
それを受けて自分も三木も真剣に考えてみた。二人して「うーん」と唸った後、出した結論はこうだった。
「両方がいいです」
「ドッチモ入レルシマショウ」
これを聞いた吉田は力強く頷いてくれた。
「食べることに興味がないってどんな感覚なんでしょうか?」
一次発酵を終え、大きく膨らんだパン生地のガス抜きをしながら、唐突に吉田がそう言った。そんな質問を投げかけられた三木は、珍しくポカンとした顔をしていた。手にしていたオーブンの天板をテーブルに置くと、
「随分急にぶっこんできますね」
なんて笑っていた。当の吉田はパン生地を炬燵に戻して二次発酵を進めつつ、更に続けた。
「はは、そうですね。僕は食べるのも作るのも好きですけど、そうじゃない人もいるでしょう?そういう人からすると、食事ってどんな存在なんだろうなって」
「うーん、俺は食事も睡眠も煩わしいと思ってましたけどね。それより働いて稼ぎたかったから」
「そしたら、食事が苦痛でした?」
「いや、邪魔だなって思うだけで、しんどいわけではないです。なんでしょうね、食事っていうか栄養補給?」
「ガソリンスタンドで給油するみたいな感じ?」
「そうそう。そんな感じ」
三木の発言からは彼が重ねてきた苦労が窺い知れたが、その語り口は非常にあっさりしていた。
「ミキサン、今デモ、同ジ?」
「いいえ。あー、食事の優先順位が高くないっていうのは変わらないですけど、こうやって皆で飯作ったり食ったりするのは良いなって思ってます」
「それは何より」
「でしょう?クラさんはどうです?食べ物の選り好みはしないにしても、昔から食べるの好きだったんですか?」
そう問われて、自分を振り返ってみた。ここ最近、食事と自分の関係性について何度も思考を巡らせているが、結論はまだ出せない。それでも言えるのは、
「アー、好キ嫌イ、考エタコトナカッタデス。食事、感謝スルモノ、祈リヲ捧ゲルモノ、デシタ」
というあの時の自分の思考だった。
「へぇ、食べ物に感謝して頂くっていうのは僕らもするけど、感覚が違いそうな気もするね」
「大地ノ恵、主カラノ賜リモノ、デス。食ベルシナイト、生キテイケナイ」
「確かに。忘れがちだけど、食事に嗜好性を求めるようになったのって、つい最近の時代のことなんだよね」
「生きるのに必死だと、食べられれば何でもいいんですよね。そっちに気を遣ってられないというか」
「なんだろう。三木さんとクラさんの言ってることって近いようで、大分違う気がするね」
吉田の発言には自分も同意するところだ。それは三木にとっても同様らしい。すると彼は少し寂しそうに笑ってこう言った。
「食事に対する考え方って、その人の性質が反映されますよねってことで良いんじゃないですかね?だから、変わらないこともあるし、変わることもありますよ。ほら、そろそろパン焼いちゃいましょう」
この後、炬燵から引っ張り出したパン生地は、いつもよりも大きく膨らんでいた。そうして焼きあがった1つのパンを、三人で分け合う。吉田はパンに蜂蜜を掛け、自分はオリーブオイルを、三木はバターを塗って口に運んだ。好きな食べ方も、人それぞれなのだった。
こうしてパンは焼く回数を重ねるごとに変化していった。薄くて真っ白なパン、黒ビールのおかげで少し茶色くなった丸いパン。オーブンで焼いたまぁるいパン、フライパンでぎゅうぎゅうに膨らんだ歪なパン。
ちなみに、体温が平均よりも高いという三木は、手の温かさも頭抜けていた。そのため、彼が捏ねた生地は大きく膨らむのだ。そんな流れから、いつの間にか、パンの生地を捏ねるのは三木の担当となっていた。
いずれにしても焼きたてのパンはふかふかとしていて、冷めると少し堅くなった。堅くなったものを「これはこれで」と噛み締めたり、「フライパンであっためるとパリッとしますよ」と試行錯誤したりするのは楽しかった。
そうして、とある日のこと。
「これって使えますかね?」
七三分けの彼はそう言って、小麦粉を差し入れてくれた。その小麦粉には僅かに色がついていた。よくよく見ると、“Spelt”と表記されていた。
「スペルト?!日本ニアルンデスカ?!」
自分でも驚くような声を出してしまったが、無理もないと思う。何故なら、目覚めてから此の方、出くわしたことがなかった代物なのだから。
「いつものやつと色が違うね」
珍しそうにこちらの手元を覗き込んでくる眼鏡の彼に、自分が教会で生活していた頃に使っていた小麦と同じものだと伝えると、
「へぇ!よく手に入れられたねぇ」
と感心の声を上げていた。すると、こちら二人の反応が想像よりも芳しかったのか当人は、
「いや、ちょっと伝手というか、この前入った職場が取り扱ってたので…」
と頬を掻くような仕草をしていた。
「アリガトウゴザイマス。ミキサン。今度、コレデ、パン、作ルシマショウ。今日ハ、クレープ、焼キマショウ」
そうして、薄く焼いたクレープを細長く切って、スープと併せて食べた。二人はその食べ方に驚いていたが、思いの外受け入れられた。それに、眼鏡の彼曰く、
「明石焼きもお出汁に浸すもんね」
とのこと。その“コナモン”については、眼鏡の彼が後日詳しく教えてくれるらしい。楽しみが一つ増えてしまった。
それ以外では、眼鏡の彼の台所にはスパイスやハーブが増えていった。クローブ、セージ、バジル、タイム、ローレル、などなど。小瓶や小袋が棚の一角で少しずつ幅を利かせるようになっていったのだ。凝り性の彼は採用された料理のために揃えたようだが、彼にとってハーブとはあまり馴染みのないものだったらしい。小瓶を片手に、
「カレーに入れたらどうにかなりますかね?」
と首を傾げていたため、大量消費できるメニューとしてピクルスを提案してみた。保存食なので消費を急ぐこともないだろうと思ってのことだったが、快く採用された。
キュウリや玉葱、人参、セロリの他、日本の漬物に倣って大根なども漬け込んだ。色とりどりの野菜がぎゅうぎゅうに詰め込まれた瓶は、あの日の冬支度を思い起こさせた。それでも、日の当たらない場所に瓶を移動させながら考えていたのは、「二人が美味しいと思ってくれる味になっていますように」ということだった。
そんなこんなで度々脇道に逸れながら、“あの頃の自分が食べていた食事”を再現する日を迎えた。
◎本日のメニュー
・玉葱のスペルト小麦詰め
・ミネストローネスープ
・羊肉とレンズマメの煮込み
・チキンハンバーグ
・温野菜とピクルス(パースニップ、人参、ビーツ/セロリ、玉葱、キュウリ)
・パン
・林檎のコンポート
いつもの食卓に、馴染みがあるのに見慣れないメニューが並んでいる。それでも、居間に満ち、台所からも追うようにして漂ってくる夕餉の匂いは、心にすとんと落ちてきた。
まずは感謝の祈りを捧げる。日用の糧に、良き隣人達の心遣いに、三人で囲む食卓に。いくら感謝しても尽きることはない。
そうして、三人揃って手を合わせる。これは彼らと食事を共にするようになってから身に着けた、新しい習慣だ。
「「「いただきます」」」
スープを口に運ぶ。舌に温かさを感じたと同時に、ローレルやセージの香りが鼻腔を通り抜けていった。いつもより少し強い塩気が、パンを咀嚼するうちに小麦の香ばしさを引き立ててくれた。
それらを食道に送り込むと、胃の中で温かさを増していくのが感じられた。
「スゴク、懐カシイ匂イ、デス。ソレニ、アッタカイデス」
自分から出たのは、ポツリと呟くような声だった。それでも二人が安堵の息を吐いたのが分かった。三人で顔を見合わせると、思わず笑みが零れた。
長い道のりを経た試行錯誤の成果が実ったところで、思い思いにスプーンを進める。
「最初の頃に焼いたパンと比べたら、少しは成長してますかね?」
「少シ、ジャナイデス」
「吉田さん、粉の分量とかかなり試行錯誤してましたもんね」
「自分でも結構頑張ったと思うよ。まぁ、生地を作ってくれたのは三木さんだけどね」
「そういえば、ミネストローネってトマトが絶対入ってるもんだと思ってました」
「それ、僕も思ってた。あと、パセリってスープの具材にするとこんなに美味しいんだね」
「確かに。生で食べた時のモシャモシャする感じとか、匂いの癖とか、あんまり得意じゃなかったんですけど、これだと気になんないですね」
「ソレ、私気ニナッテマシタ。ナンデ日本デハ、パセリ生デ食ベマスカ?」
「うーん、実はあんまり食べられてないんですよね。食事の色取り要員というか、添え物扱いになってることがほとんどです」
「セロリ、食ベルノニ…パセリ、虚シイ…」
「僕らも今回教えてもらわなかったら、知ることがなかっただろうしね。こういう食べ方がもっと広まればいいのにね」
「そうですね」
食事を味わうということ、楽しむということ。それは決して贅を尽くすこととは限らないのだ。
楽しかった食事も終わりが見えてきた頃、ずっと考えてきたことに一つの答えが出せたような気がした。
「スゴク、懐カシイ匂イ、味デシタ。アリガトウゴザイマス」
自分の発言に二人は食事の手を止めた。
「デモ、違ウコト、アリマシタ。コノ食事、美味シイ、楽シイ、初メテデス」
そう。これほどまでに楽しい思い出に溢れた食事を経験したことがあっただろうか。そもそも、食事に楽しい思い出が付随したことがあったか。
明るい部屋で賑やかな会話とともに囲む食卓がこれほど温かいだなんて、長い眠りから目覚めて初めて知ったのだ。
「クラさん、なんかしんみりしてますけど、まだ終わってないですからね」
「そうそう。デザートもあるんだから」
二人とも、キョトンとした表情をしたかと思えば、あっけらかんとそう言った。今度はこちらが呆気にとられる番だったが、手を動かし始めた二人はなんてことはないようにしている。
どうやら、楽しい食卓は、これからも続くようだ。
「「「ごちそうさまでした」」」
再び、三人揃って手を合わせる。腹も心も満たされている。それなのに、隣人達といったら、こんなことを言うのだ。
「さて、次は何を作ってみましょうか?」
と。
興味も好奇心も一向に尽きる気配がない。そんな様子を見ていると、いくらでも新しいことに挑戦できる気がしてくるのだから不思議なものだ。
未知のものを知り、共に楽しみ、日々の糧を得る。
そうして、幸せが積み重なっていく。これ以上の幸福があるだろうか。
この幸せが少しでも長く続きますように。
強く、強く、そう祈った。
完