top of page
sozai_image_196073.jpeg

 

 花を咲かせる

おんもらき 

​ 

 昨年末、俺たちは大晦日の年越し会を開くことができなかった。
 俺は年末年始の激務シフトから逃れられず──前回は休ませてもらったので仕方ない──吉田さんは親戚の集まりに呼ばれ、クラさんも竜の一族の年越しパーティーに顔を出すように御父上から誘われていたのだ。
 そうなることは12月の上旬当時から分かりきっていて「トシコシ会デキナイデス……トシコシソバ……」とクラさんは目に見えてしょぼくれていた。そこで天啓を示したのは吉田さんである。

「日本にはね、年越し蕎麦だけじゃなくて、年明けうどんもあるんですよ」

 

 そういうわけで、年が明け、世の年越しムードが下火になってきた今日、遅めの年明けうどんパーティーを開催することにしたのであった──。

「ヨシダサンノオ家デス!!!!!」
 年始の挨拶もそこそこに、迎え入れられたお隣さんの家で、クラさんが声をあげて泣き出した。
 吉田さんも俺も驚いたけれど、すぐに察して、クラさんの背を撫でてやった。
 さもありなん。きっと過酷な年越しだったのだろうから。
 一族の御真祖様のハリケーンさは噂に聞いている。帰ってきた直後のクラさんから簡単な旅程はメッセージで聞いていたが、クラさんの日本語と俺の理解が間違っていなければほぼ世界一周分は連れ回された計算になっている。だいぶ本人もエキサイトしている様子で楽しそうな文面だったが、いざこうして慣れ親しんだ隣人の家に上がると、どこか緊張していた糸が切れてしまうこともあるだろう。
 かくいう俺も、なかなかハードな連勤が続いたので、吉田さん家に久しぶりに来れてなんとなくホッとするようなちょっと泣きたくなるような、そんな気持ちだった。ただ帰って寝るだけになっている自宅よりよっぽど“帰ってきた”気分になる。
 クラさんを介抱しつつ、吉田さんと顔を見合わせて、笑い合った。
 バイトで年末年始をあれだけ味わったのに、なんだか、ようやく年が明けた気がした。

      *

 クラさんが落ち着いて、身支度を整えた所で、年明けうどんに使う食材をキッチンに並べ始める。
 紅白うどんの乾麺、花飾り用のにんじん、天ぷら用のエビ、クラさんが「杭デス!」とはしゃいで持ってきてくれたゴボウと、それを混ぜてかき揚げを作るための玉ねぎ、エトセトラエトセトラ。
 天ぷらは年明けうどんに相応しいかは審議が入るかもしれないが、やはり年越し蕎麦らしさも出したいし、何より、美味しいものはいくら食っても良いのである。

 キッチンでの分担は、俺が大まかな切り物と揚げ物、クラさんはゴボウのささがきとにんじんの型抜き、吉田さんがエビの下ごしらえとコンロ仕事。細部は都度、臨機応変に。
 クラさんにペティナイフと洗いゴボウを渡して「ささがき……あー、鉛筆削りみたいに、」と言ってから、あれ、そういやクラさんの時代って鉛筆あったんだっけ?、と思ったが、クラさんは「ワカリマシタ!」と言って、しっかり流しに備えたザルに向かってささがきを始めた。
「お。クラさん、ささがき上手ですね」
 同じく流しでエビの殻剥きをしていた吉田さんがクラさんの手元を覗き込む。
「ササガキ……日本ノ呼ビ方、知ラナイデシタガ、昔、似テル切リ方、ヤッタコトアリマス」
「へぇ!国や時代が違っても、やっぱり料理の仕方は似るものなんですねえ」
「昔、旅シタ時、オ金稼グタメ、何個カオ仕事シテマシタ。コレシタノ、ソノ時デス」
 ……ん、今さらっと言われたけど、これ多分破門された後の話じゃないか?こんなフランクなノリでお出しされていいやつ?
「すごい、クラさん経験豊富だなぁ」
 そんでそれをこうやってスマートに打ち返せる吉田さんも吉田さんだ。
「なんだか三木さんみたいですね」
「へ?」
 予想外のタイミングで水を向けられて、俺は思わず型抜き用のにんじんを切る手元が狂いそうになる。
「フフフ、私、便利モブノ先輩デスネ?」
 そう言って微笑むクラさんの表情は、誇らしげかつ楽しげで。逞しい人だ、本当に。
「……ますます憧れちゃうミキね〜」
 俺が笑ってそう返すと、クラさんと吉田さんもなんだかキャッキャと手元の作業に戻っていった。
 その旅路がどうあれ、それを笑い話にできてしまうクラさんと、必要以上に重く受け止めずにちょうどいい温度感で接してくれる吉田さん。素晴らしいバランス感覚の化学反応が、話に花を咲かせている。平和だ。
 ちょっと和ませてもらってから、にんじんを切り終えた俺はかき揚げの玉ねぎに取り掛かる。尖った頭と根っこの部分を切り落とし、縦半分に切ってから、繊維に平行にスライスしていく。
「……!」
 1玉分ほど切り終わった後、俺は思い至って、次に手に取った玉ねぎの向きを横にして入刀──所謂、輪切りにした。円形に折り重なった玉ねぎの層の、年輪のような断面が量産される。
「吉田さん、クラさん」
「はぁい?」
「ナンデスカ?」
「玉ねぎ天とオニオンリング、どっちがいいですか?」
「えっ、やだぁ究極の選択……」
 えぇ〜?と唸りながらも背腸を取る手つきが衰えない吉田さんに、クラさんが首を傾げた。
「タマネギテン……?」
「あんな風に輪切りにした玉ねぎを、あのまま天ぷらにしちゃうんです。しっかり火が通ってる所は甘くて、火が通り切ってない部分は玉ねぎの歯応えがあって、美味しいんですよ」
「オオ……」
 吉田さんの説明に、クラさんの紅い瞳が輝き出す。
「オニオンリングは前に食べたことありますよね。ほら、前に三人で映画見に行った時に」
「丸イ、アー……輪ッカノ?」
「そうそう」
「究極ノ選択デス……!」
「でしょ〜?」
「本当に日本語上達されましたね」
 吉田さんと同じように唸りかけたクラさんが、ささがきの手を止めた。
「……オニオンリングノ、中身ハ、ドコニ行キマスカ?」
「え?中身がくり抜かれてるからゼロカロリーみたいな話ですか?」
「吉田さん?」
「ゼロカロリー……?」
「すみませんクラさん。元のお話を続けてください」
「ハ、ハイ……エーット、オニオンリングハ、ソノ玉ネギノ、外側使ウ、違イマスカ?」
 クラさんが俺の手元の玉ねぎを指す。
「ああ……そうですね、はい。外側の3、4層分くらいは使おうと思ってます」
「ソノ内側ハ、リングニナラナイ?」
「そうミキねぇ。小さすぎると衣がくっついちゃって、綺麗な輪っかにならないの、で……」
 俺はそこまで言って、クラさんの言わんとしていることに気づく。吉田さんもハッとした顔になる。
「デハ、内側ダケ使ッテ、小サイ玉ネギ天、一緒ニ作レマセンカ?」
「「て、天才だ……!」」
「フフン」
「やりましょう」
「是非やりましょう」
 そういうことになった。

      *

 さて、工程は次のフェーズへ。
 吉田さんはうどんの出汁作り、クラさんはにんじんの型抜きとレンジ蒸し、俺は天ぷらの準備に入る。
「てっきりにんじんはうどんと一緒に茹でちゃうもんだと思ってました」
 流しからコンロへ移った吉田さんが、出汁の鍋とにらめっこしながら言った。
「あー、これはバイト先の人の受け売りなんですけど、にんじんは茹でると栄養がお湯に逃げちゃうから、軽く水を通してレンチンする方がいいらしいんですよね」
 まな板から離れた俺も、天ぷら粉と水をボウルの中で練り合わせながら答える。
「へぇ〜」
「……フフ、フフフ」
 間延びした吉田さんの返事の後、にんじんをクッキー型で花型やネコ型にくり抜いていたクラさんが、くつくつと笑い始めた。
「クラさん?」
「どうしました?」
「イエ、チョット……フフ、」
 クラさんがこうして込み上げるように笑っているのも珍しい。
「なになに??」
「気になるミキ〜」
 しつこくつっつけば、クラさんはちょっと恥ずかしそうに教えてくれた。
「ニンジン、レンチン、チョット似テマス。意味全然違ウノニ。面白イ思イマシタ、フフ……」
 クラさんはそう言って、またくつくつと笑い出した。
「クラさん……んふ、ついにオヤジの仲間入りですね」
「コラ吉田さん」
 吉田さんの笑顔が楽しそうなこと楽しそうなこと。
「オヤジ?……アー、父親ノ意味?」
「それもありますけど、今回は、いい歳したオッサンって意味です。日本のオヤジ達はね、そういうオヤジギャグ……言葉遊びが大好きなんですよ」
「また変なこと吹き込まないでくださいよ」
「え〜?クラさんがもっと楽しく日本語を学べる良い機会じゃないですかぁ」
「あーー、いや、でも、うーーーーん……」
「仲良し限定ならいいですよね?」
「オヤジギャグ、楽シイ。ダメデスカ?」
 クラさんまで謎の追い打ちを仕掛けてきた。
 オヤジギャグが好きなオッサン達は確かに多いだろうが、あまり親しくない仲で、特に若者相手にいざぶちかましてしまうと、その場の空気がたちまち凍てついてしまう、ハイリスクなトーク技能だ。その後のフォローを鑑みても、クラさんのコミュニケーショ能力にはまだ早いような気もする。
 しかし、2人でそんな目で見られたら俺はもうNoともNuとも言えない。
「……まあ、節度を持ってって感じで……」
「わーい」
「ワーイ」
 キャッキャとかしましいオッサン達をよそに、揚げ油を温めていたコンロが適温を知らせるアラームを鳴らした。

 ──油に数滴、天ぷら衣を落とす。落とした衣が一瞬沈み込み、底に触れる前に固まり、浮き上がるぐらいが適温。温度にして約180℃。
 剥きエビの尾を持ち、身の部分に天ぷら粉をまぶしてから衣に浸ける。こうすると、エビの身から衣が剥がれにくい。
 衣をつけたエビを、なるべく身がまっすぐになるように油へ泳がせる。下ごしらえで筋を切っても、加熱された段階で身が折れ曲がってしまうこともあるので、注意が必要だ。
「わあ……プロの腕前ですね……」
「ハハ、大晦日に飽きるほど揚げてたもんで……」
「あー、お蕎麦には欠かせませんもんね……お疲れ様でした」
 俺は苦笑しつつ、菜箸に纏わせた衣を、油面に浮かんできたエビの表面へポトポトと落としていく。
「ソレハ、何ヲシテイマスカ?」
 クラさんが俺の菜箸を指差す。
「ああ、こうすると見栄えが良くなるんですよ。もうちょっと揚がってくると分かりやすいと思います」
 ふよふよと油の上を泳いでいたエビ天が、だんだんと気泡を吐き出す勢いを弱めてくる。菜箸でつまんで、衣の内側からパチパチと弾けるような手応えを感じるようなら、頃合いだ。
 ジュワ、と音を立てて引き上げられたエビ天が、ふわふわとボリューミーな黄金色の衣を、纏った油でキラキラと光らせた。
「どうですか?」
 俺的には100点に揚げられたエビ天を2人に見せると、2人の瞳も負けじとキラキラと光った。
「ワァ〜!」
「ほんとにお店の天ぷらみたいだぁ〜」
「まあ、確かにお店の人が作ってますから」
 俺はエビ天を揚げ物バットに置き、次のエビ天に取り掛かる。
「オ花ミタイデスネ……!」
「確かに!」
「お、クラさん。なかなか鋭いですね」
 エ、とポカンとした顔を向けるクラさん。俺はまた油に泳がせたエビ天に、衣の粒をふりかけつつ、答えた。
「こうやって、天ぷらの表面を飾りつけることを、『花を咲かせる』って言うんですよ」
 まあ、これもやり方を教えてくれた先人諸氏の編み出した技術や名前なので、俺が胸を張って教えられることでもないのだけど。
「ステキデス……!」
「業界用語ってやつですか。かっこいいなぁ、職人って感じで」
 ……だから、そうやって熱い視線を向けられると、なんだかむず痒いというか。
「え〜、吉田さんだって最前線のビジネスマンですし、クライアントからのマストなタスクをフィックスしたりするんでしょ〜?」
 なんとなく据わりが悪くって、俺はおちゃらけた答えを返す。
「んふ、まあねぇ、ASAPでローンチできるようにベストを尽くしてるねぇ」
「キャー!ホンモノミキー!」
 吉田さんのノリの良さに助けられて、俺はまた揚がったエビ天を引き上げながら笑った。ちょっと不恰好だった。動揺がはっきり表れていて恥ずかしい。
「ビジ……エス、ピー……?」
 そんな俺たちのやりとりを、クラさんが少し寂しげに見ていた。
「あ、あー、ちょっとクラさんにはまだ難しかったですね」
「すみません、置いてけぼりにしてしまって」
「オゥ、ヨカッタ。ヨシダサン、ミキサン、日本語デス」
「あは……さっきの言葉は、外国語から作られたとはいえ、新しい言葉ですから、クラさんにもわからないですよね」
「言葉、新シク、作ル……?」
「言葉は生き物ってよく言うんですけど、人間の生活が、時代と共に変わっていくと、会話に必要な言葉もそれに合わせてどんどん変わっていく、というか……」
「そうそう、日本語もそれこそ何百年か前は今とは全然違ってますし……」
 どうも簡単な言葉で説明するには難しい。吉田さんと2人でしどろもどろになりながら頭を捻っていると、クラさんは合点が言ったと言うように、手をポンと打った。
「ナルホド、確カニ。ココニ来タ頃、ドラルクガ、私ノ言葉『古イ』言イマシタ……コウイウコトデスネ。言葉ハ生キ物、良イ例エ。アー……目カラウロコ?デス!」
 そう言って満足げに頷くクラさん。俺は絶句して、吉田さんはクラさんに歩み寄って彼の癖毛を撫で始めた。
「ナ、ナニ??」
「クラさん、これからもたくさん、日本語を楽しく覚えていきましょうね。僕たち流行語も死語もバッチリ覚えてますから」
「ハ、ハイ……?」
「吉田さん、俺の分も撫で回しておいてください。今、手が粉まみれなので」
「任せてください」
「ナンデ???」

      *

 出来上がった料理が、食卓に所狭しと並ぶ。
 吉田さん謹製の出汁が湯気を立てる三つの紅白うどんの上には、薬味のネギや三つ葉と、クラさんが型を抜いた花型とネコ型の蒸しニンジン。天ぷらはサクサクさを楽しめるように、二度揚げしてから敢えて別の皿に盛り付けた。エビ天、ミニ玉ねぎ天、ゴボウと玉ねぎとニンジン──型を抜いた外側の部分を細かく切って混ぜ込んだ──のかき揚げ。オニオンリングは塩をまぶして、また別の皿に。
「本日ノゴハン!」
「んふふ、ですね」
 友人の漫画にすっかりハマったクラさんにちょっとニヤニヤしながら、2人に合わせて席に着いた。
 吉田さんがコホン、と咳払いを一つ。
「えー、まず改めまして、明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
「オメデトウゴザイマス!」
 俺とクラさんもなんとなく神妙な顔を作って答えた。
「今年も、なんとなーくゆるーく、仲良くしてくださいね」
「モチロンデス!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 俺とクラさんの答えを聞いて、ちょっと真面目な顔をしていた吉田さんが、フニャっと元の顔をした。
「えへ、新年なのでちょっと改まって見ちゃいました」
「いいじゃないですか、親しき仲にもってやつですよ」
「ヨシダサン、カッコイイデス」
「んふふ、失礼しました、クラさんどうぞ」
「ハイ!」
 あとは、いつも通り。
 クラさんと一緒に、俺とヨシダサンも両手を結んで、クラさんの食前の祈りを聞き届ける。
 アーメン、の言葉を合図に、伏せていた目を開け、三者三様に目を合わせ──。

「「「いただきまーす!」」」

 待ちきれないと、湯気を漂わせる料理の数々に、箸を伸ばしたのだった。

 皆で作った年明けうどんは本当に美味しかった。
 既製品にちょっと手を加えただけですが、と謙遜してた吉田さん謹製かけつゆは、色が薄いのに出汁の味が効いていて、茹で加減ばっちりのうどんとよく合っていた。クラさんがレンジで蒸したにんじんも、焦がす事なく鮮やかなオレンジ色で、火の通り具合が丁度良く、にんじん特有の甘さが、うどんの塩味と合わせればいいアクセントになった。
 俺が担当した天ぷらも「家でこんなサクサクの天ぷら食べれるなんて幸せですね……!」「オ花ノ咲イタエビ天、トテモ素敵デ、オイシイデス!」だなんて、二人には好評だった。ものすごく照れくさいけれど、喜んでいただけて何よりだった。
 
 年末年始のお互いの近況──久しぶりに会った親戚の子が予想以上に成長していて驚いたこと、年越しの瞬間にまたしても吸血アブラムシが大量発生して駆除に追われたこと、元気すぎる曾祖父を持つと大変なこと──について、ゆるく語り合いながら、あらかた食べ終えてからのこと。
 シームレスに晩酌へ映った吉田さんが、オニオンリングをつまみながら言った。
「そういえば皆さん、今年の抱負とかありますか?」
「ホーフ?」
「えーっと、今年の目標、というか、こうなりたいなーっていう希望、みたいなものです」
「アー……hope?」
「ん?あー……ああ、そうかもしれないです」
 そういや抱負って英語でなんて言うんだろ。あとクラさんが英語話せる人だったの、忘れてた。昔の悪魔祓いの基礎教養だった、とか。
「……俺、クラさんの言葉ちゃんと覚えよっかなぁ」
 気づけば、そう口走っていた。特に取り繕うこともなかったので、そのまま缶ビールを一口あおった。
「エ!?」
「いいじゃないですか!僕もそれにしようかな」
「お、仲間がいると心強いミキ〜」
 俺と吉田さんでいぇーいと、軽いノリでビール缶同士をぶつけると、クラさんがアワアワしだした。
「マ、待ツ、シテクダサイ!私ノ言葉、古イデス。モウ今ハ使エナイ……言葉ガ生キ物ナラ、私ノ言葉、モウ死ンダモノデス……」
「え〜?でも、クラさんは喋ってるんですよね?」
「存命吸血鬼の方々が話してる言葉なら、全然生きてる言葉ですよ。俺も仕事で使えるし」
「僕らの先生はクラさんですね」
「自習も大事ミキよ〜」
 なんて俺たちが言っていると、クラさんがクス、と笑って、言った。
「デハ、私ハモット、日本語ノ勉強頑張ル、シナクテハデスネ」
 しなくては、という義務感にあふれた言葉と、どこかミスマッチな晴々とした表情と声のトーン。
「二人ニ私ノ言葉、日本語デ教エル、デキルヨウニナル……私ノホーフデス」
 クラさんは小首を傾げて、ドウデスカ?と言った。
「……とても、いい抱負だと思います」
 クラさんの日本語がいつか辿々しくなくなって、クラさんの操る日本語で、クラさんの見ている世界を聴く──この上達具合なら、そんな未来は案外近いかもしれない。
「じゃあ今度、クラさんのお祈りの言葉を教えてもらいたいなぁ。僕、ご飯の前に一緒に言えるようになれるの、ちょっと夢で……」
「それ俺もです!いつも覚えようと思って聞いてるんですけどなかなか……」
「!……ハイ、ヨロコンデ!」
 クラさんは嬉しそうに言って、オニオンリングを頬張った。
「いいなぁ……いつかクラさんと、色んな言語で話に花を咲かせる……いいですね、すごく楽しそう」
 揺蕩うようにゆらゆらと揺れながら、吉田さんが言った。吉田さんが俺より先に酒が回ってるの、珍しいな。
「?花ヲ咲カセル……天プラ、デスカ?」
「え?……あー」
 そういえばさっき、そう教えたばっかりだ。すごい、もう覚えてる。新しい記憶だからかもしれないけど。
 どこかぽやーっとしている吉田さんに代わって、俺が説明することにした。
「『話に花を咲かせる』って言う時は、『お話するのがもっと楽しくなる』みたいな意味になりますね。同じ言葉を使っても、たまに全然違う意味に──」
「アッ!!!!!」
 突然クソデカボイスをあげたクラさんが、間を置かずに「ゴメン!!」と言って席を立った。
 たぶん謝ったんじゃなくて「御免」の方だろうな、どこで覚えたんですか?と思っていると、クラさんは自分の荷物の中から一冊の本を手に取って戻ってきた──よく見れば、アイジャ飯のとある巻だった。え、持ち歩いてるんですか。ご愛読ありがとうございます。
 興奮した手つきでページを手繰り、目当てを引き当てたのか、コミックスを大きく開いて俺たちに見せてきた。
「コレ、ココ!皆ガオ話シテイル上ニ、花ガ描イテアリマス!!」
 指し示されたコマを見れば、確かに主人公一行が異星の現地人と交流を深めているシーンで、背景に簡易的な花が浮いていた。ちょうど、クラさんが型抜きしたニンジンのような形の花だ。
「話ニ花ヲ咲カセル、コレデスカ!?」
「!」
 正直、そんなこと考えたこともなかった。この花、描いた覚えだってあるのに。
 今まで、そういったフィクション上の表現の一つとして受け入れていた、只の平面的な記号だったのに、突然それが浮き出て、奥行きさえ感じるような気がした。
「言われてみれば、確かに……!すごいじゃないですか、クラさん!」
 吉田さんが無邪気にクラさんの肩を叩く。クラさんも楽しげに「大発見デス!」なんてはしゃいでいる。
 なんとなく俺は混ざれなくて、それをどこか遠くに聞いていた。
 ──あいつは、そんなこと考えて描いてたんだろうか。
 最近手伝いに入る時は、そんなこと考えてられないほど、聞いちゃいられないほど忙しくて、というか決死で。それでも最新巻まで欠かさず揃えて毎巻読んでるし、どこのページを手伝ったかだって覚えてるのに。
 忙殺を理由に、娯楽を享受することに、怠惰になっていなかっただろうか。
 そのことに、クラさんに気付かされるとは。
 やっぱりこの人といると、知ってる世界さえ違って見える──。
「私、日本語モット話スデキレバ、オ花咲ク、デキルデショウカ……」
「ええ、ええ、きっと咲きますよ、この辺にポコポコって」
「ん、吉田さん?」
 気づいたら吉田さんが中空を指さしてあらぬことを言っていた。普通に物思いから戻ってきたわ、何言ってんだ。
「オヤジギャグモ覚エレバ、モシカシテ……!」
「んふふ、シンヨコ一帯がお花畑になってしまうかもしれませんね……」
「ナント……!」
「下手すりゃ永久凍土ですよ!」
 うっかり呆けていたら話が危険な方向に転がりかけていた、危ない危ない。
「えー、三木さんはクラさんのオヤジギャグ、笑ってくれないんですかぁ?」
「まさか、ヘソで茶を沸かした上で座布団10枚差し上げますよ」
「んふ、んふふふふ」
 勢いで口走った言葉が吉田さんのツボにハマったらしかった。そのまま一回お黙り遊ばしてくれ。
「オヘソデオ茶……!?」
「あ、えっとですね、これはことわざと言って、物の例えと言いますか……うーーん」
「そういえばなんでヘソで茶を沸かすって言うんでしょうね」
「ヨシダサンモワカラナイ!?」
「待ってください、調べます……」
 そうやって、俺たちはこぞってスマホを持ち出して調べ始める。

 ──ああ、本当に。いつもと変わらない。
 いつもと変わらなくて、いつも通り楽しい。
 一年の計は元旦にあり、というのなら、こんなにいい始まりはないだろう。

 

きっとこの一年も、楽しみと発見の多い、いつも通りの日々になりそうだ。
 
      *

 

 言語を巡るやりとりは、気が付いていなかった足元の穴に、予め培った知識や常識を持ってきて埋め立てるようなものだと思う。
 そうやって、認識という地盤を強固にするような、哲学的で、地道な作業だ。
 でも、それだけじゃない。
 あの時、吉田さんが変なこと教えてたな、とか。
 あの時、うっかり粗野な物言いをしたら、クラさんが覚えそうになっちゃって申し訳なかったな、とか。
 あの時、クラさんに聞かれたことがうまく説明できなくて、吉田さんと二人で頭を悩ませたな、とか。
 大変なこともあるけれど、その会話の積み重ねは、とても楽しい。
 その楽しさが、やがて種になって、埋め立てた認識の地盤に記憶の根を張る。
 そして、もっと未来で話のネタになって。こんなこともあったねと、笑えるようになった時。
 記憶の根が芽吹き、鮮やかな思い出が花開くのだろう。

 

 いつかまた、花を咲かせたエビ天を作って。
 いつかまた、にんじんの花を咲かせたうどんを食べて。
 いつかまた、花を咲かせた思い出話の傍で。

 

 きっと、三つの笑顔が咲くのだろう。

bottom of page