今日はカレー
E-MON
それはある日の事。
猫カフェの仕事を終え、徒歩で自宅マンションへの帰路についていたクラージィはふと辺りに漂う香りに気付き、彼の特徴である形の良い鷲鼻をすんと鳴らした。
『この香り…確かこれは…』
母国語で独り言ちるクラージィは鷲鼻を鳴らしつつ、自らの記憶を手繰り寄せた。
『確かそう…以前ヨシダサンとこの辺りを歩いていた時の事だったか…』
クラージィは静かに目を閉じ、しばし自らの記憶の海に心を泳がせた。
※※※※
「カレーの匂いですよ、クラさん。」
と、その時クラージィに告げたのは彼の隣室に住まう眼鏡の男――吉田輝和だった。
切っ掛けは些細なことだった。
クラージィが新横浜の生活を始めた頃。彼の住まうマンションの隣室の住人吉田、そしてその隣室の住人三木カナエと親交を結び始めた頃。
ある日、偶々帰路が一緒になった吉田とクラージィが他愛ない話をしながら住宅街を歩いていた時。
住宅街に漂う香り――吉田には馴染み深い香りだがクラージィにとっては初めて嗅ぐ香り――に、クラージィは鷲鼻をすんすんと鳴らし、
「ヨシダサン!ナンデスカコノ…ニオイ?」
と、興味と不安が綯交ぜになった表情で吉田に問いかけた。
「あー…そうか、クラさんには初めてだったか、この匂い。カレーの匂いですよ、クラさん。」
「…カレー…?」
クラージィを不安にさせまいと、努めて穏やかに吉田は答えた。
「はい。カレーライスやライスカレーとも言いますが、料理の名前ですよ。日本で最も親しまれてる食べ物のひとつです。
あ…待てよ?」
妙案を思いついた表情で吉田はクラージィに問いかけた。
「クラさん、この後暇ですか?もし良ければ一緒にカレーを作って食べません?」
「エ…ヨロシイデスカヨシダサン?!…ハイ、喜ンデ!ヨシダサントカレーナルモノヲ作ッテ食ベタイデス!」
吉田の思わぬ提案にクラージィははじけるような笑顔で答えた。
「んふ…よし、じゃあ早速カレーの材料の買い出しに行きましょうか。いつものスーパーなら一通り材料は揃うだろうから一緒に行きましょう。」
「合点承知!デス!」
スーパーでの買い物は順調だった。
「さて、人参にじゃがいもに玉ねぎ、あと肉はこれでよしとして…あとはカレールーか…」
「カレールー?」
「カレーはね、香辛料から作るのもありますが、カレールーを使うと簡単に出来るんですよ。クラさんも覚えておくといいですよ。
…あ、待てよ、クラさんニンニク駄目ですよね?偶にカレールーにニンニク入ってるのあるからなあ…せっかくクラさんと食べるんだし、どうせなら二人で美味しく食べたいしなあ…」
と吉田が逡巡していると、ふと何かを見つけたクラージィが吉田に呼びかけた。
「ヨシダサン、アソコノ『店員サン』ニ聞ケバ教エテ下サルカモシレナイデスヨ!」
「ん…あ、なるほど、あそこの『店員さん』なら詳しいかもね。…すみませーん、ちょっとよろしいですか?」
と、吉田は陳列棚のチェックをしていた長身痩躯の男性店員に声を掛けた。
「お忙しいところ失礼しますね。吸血鬼の方やカレーを初めて食べる方にお薦めのカレールーって、何かご存知ですか?」
すると、店員は作業の手を止め吉田とクラージィに笑顔で
「かしこまりました『お客様』、ご案内させて頂きますのでどうぞこちらまでお越し下さい。」
と答え、二人をカレールーのコーナーまで案内した。
店員の胸の名札には「三木」と書かれていた。
三木に誘導されて辿り着いたカレールーのコーナーは様々な会社から出されたカレールーがひしめき合っていた。
「コレガ…カレールーナルモノ…コンナニイッパイ?イッタイ私ハドレヲエラブスレバヨイ????」
困惑するクラージィを安心させるように、三木は努めて朗らかに穏やかに語り始めた。
「そうですね…まず、こちらの商品は日本のカレールーの定番商品でして、幅広い層の皆様にお召し上がり頂く為ニンニクは使用しておりませんので、
人間のお客様のみならず吸血鬼やダンピールのお客様からも大変ご好評を頂いております。
カレーを初めてお召し上がりになられる方にはまずはこちらをお薦めしておりますので、まずはこちらをお試しになられてはいかがでしょうか?」
と、一つのカレールーを手に取り、二人に見せた。有名メーカーの定番扱いのカレールーだった。
「なるほど!お忙しいところありがとうございます『店員さん』…ところで」
と、吉田は辺りを伺いながら三木の元に近づき、
「三木さん、僕は今日はこの後クラさんと一緒にカレーを作って食べるつもりなんですが…三木さんは今日はちょっと無理そうですかね?」
吉田は三木に申し訳なさそうに彼の耳元で小声で囁いた。
すると、三木は先程までの店員としての営業スマイルではなく、二人の友人としての表情で
「そうですね…今日はまだ暫く上がれそうにないんで…今日は俺、不参加…に…」
と、悔しさと悲しさを滲ませた表情で小声で呟いた。
吉田の誘いを断らざるを得ない三木が涙目になっていたのをクラージィは沈痛な面持ちで見つめていた。
「ごめんなさいね三木さん、僕が急にじゃあ今日のオフ会は三木さん、またの機会という事で…あ、三木さんの分のカレーはちゃんと取っておきますから。もちろんご飯もつけて。」
「本当ですか!?ありがとうございます吉田さん…!でもクラさん、カレー食べたいんじゃ…」
「安心スルシテクダサイ!ミキサンノカレーハ私、身命ニ代エテモ手ヲツケマセン!」
「すいません…クラさんにまで気を使わせちゃって…」
「気ニスルシナイデクダサイ!今日会エナイブン、今度マタイッパイ会ウスレバイイダケデス!」
「…クラさん、本当ありがとうございます!」
申し訳なさそうにしていた三木はクラージィの無邪気な言葉に救われたように吉田には思えた。
そして吉田とクラージィはカレーの材料一式とと三木お薦めのカレールーを買って帰り、吉田の部屋で二人でカレーを作り食べた。
吉田がカレーを作る様子をクラージィは真剣な面持ちで一生懸命具に見つめていた。
クラージィは吉田はカレーの作り方のコツを――大抵のカレールーには作り方が書いてあるからそれを読めるようになるといいですよ、とか
人参玉ねぎじゃがいもは何にでも使えるから安い時に買い込んでおいて常備しとくといいですよ、程度の事だが――教わり、魂に刻むように記憶した。
初めて食べるカレーにクラージィは歓喜し、いずれ自分もこれを作って食べたいと思った。
そして自分の作ったカレーを心の底から美味しそうに頬張るクラージィを吉田は、宛ら我が子を見るような優しい目で見つめていた。
※※※※
『そうだ、カレーの香りだ…そう、ヨシダサンとミキサンが教えてくれた…』
と、クラージィは閉ざしていた両の目を静かに開き、懐かしそうに呟いた。
『良い機会だ…今日はカレーを作って食べるか。』
クラージィは独り言ちると、いつもの行きつけのスーパー――吉田と三木にカレーを教わったあのスーパー――へと足を運び、カレーの材料を買って家に帰った。
『さて…こんなものか。』
と、クラージィは胸に猫のアップリケのついたエプロンを纏い、カレーの材料をキッチンに一通り並べた。
スーパーで買った豚切り落とし肉。玉ねぎ。じゃがいも。人参。そしてカレールー。あの日吉田と三木とで選んだものと同じものだ。
『ヨシダサンは確か…野菜をこのくらいの大きさに切り揃えていたな…』
あの日吉田の後ろでカレーを作る様子を具に眺めていたクラージィは、それを思い出しながら丁寧に野菜の皮を剥き、芽を取り除き、切り揃え始めた。
そしてクラージィはキッチンのIHクッキングヒーターに寸胴鍋をかけ、スイッチを入れた。
程よく温まった鍋にサラダ油を少し注ぎ、油が温まった所にくし形に切った玉ねぎを投入する。
多めに入れた玉ねぎはクラージィが木べらで炒めていくと香ばしくも甘い香りを放ちだした。
玉ねぎがしなしなになったところでクラージィは豚肉を鍋に少しずつ加え、木べらでまとめて炒め始めた。
豚肉の脂身が炒め油で軽く揚がる音が鍋の中で爆ぜ、玉ねぎと豚肉の旨味が混ざっていくのが分かった。
豚肉の油が出てきたところでクラージィはじゃがいもと人参を鍋に投入し、塩コショウを振って木べらでさっくりと炒め合わせていく。
全体が炒め合わさり油が馴染んだところでクラージィは鍋に水を一気に注いで火を強め、浮いてきた灰汁を丁寧に取り除き、沸騰した所で火を弱めて鍋に蓋をして
クッキングヒーターのタイマーを設定し、野菜屑を始末したり俎板や包丁を洗うと換気扇のスイッチを入れて一旦キッチンから離れ、リビングの猫柄クッションに腰を下ろした。
『あとは具材に火が通るまで暫し待つのみだが…しかし』
クラージィはふと部屋をぐるりと見やり、
『こうして見ると…私財が増えたな。ここに住み始めた頃とは…いや…人間だった頃とは大違いだ…』
テーブルの上の手の平サイズの猫のフィギュアを摘み上げ、眺めながらクラージィは独り言ちる。
『よもやこの私が私物を持ち、自分の為に自分が食べたいものを作る事になるとは…考えたこともなかったな…』
猫のフィギュアを優しく撫でながらフフとクラージィは静かに微笑んだ。
そもそもクラージィには私物や私財という概念は無かった。
出自の定かならぬ彼が教会に所属していた頃は、彼が身に纏うものや悪魔祓いとして扱う品、手持ちの現金は全て教会からの支給品であり、あくまで彼の私物ではなかった。
住居も共用施設であり、インテリアを自由にできる状況ではなかった。
食事もまた然り。
クラージィにとっての食事とはあくまで悪魔祓いとしての職務を果たす為に摂るだけのものであり、修行の一環でもあった。
そこに楽しみや選択の自由などは無く、出された物をただ黙々と摂取する。修行として教会の皆と黙々と作る。それだけだった。
教会から追放された後は選り好み等の余地は更になかった。心無い者から労働の報酬として黴や泥に塗れたパンを投げつけられた事や藻の浮いた水を頭からかけられた事もあった。
それが今や。
世間一般の基準では決して広いとは言えないクラージィのマンションは彼の両手で数えきれないほどの物で溢れている。
三木や吉田に見立ててもらいクラージィが自分で稼いだ金で買った鍋。フライパン。やかん。ナイフやおたま等の調理器具一式。カトラリー一式。
炊飯器。電子レンジにトースター。壁にはカレンダー。食器棚には自分用の食器だけではなく、来客用の食器も用意されており、来客をもてなした事もあった。
服もお仕着せではなく、クラージィが吉田や三木に見立ててもらってではあるが自分で選んだものがほとんどである。
今着ているエプロンも。調理する時はエプロンを着た方が良いと三木と吉田に勧められ、駅近の衣料品店で買った無地のエプロンに、
これもまた駅近の百均でたまたま見つけて気に入った猫のアップリケをクラージィが手づから縫い付けた一品である。
今クラージィが弄んでいる猫のフィギュアもクッションも、駅中の安価な雑貨店でクラージィが気に入って買ったものだ。
そして食事もまた然り。
蛇口を捻れば清潔な水道水が出てくる。幾ばくかの金銭を払えば好きな時に好きな物を食べることができる。
そもそもクラージィにとって「食べたいものを選んで食べる」という行為がそもそも彼の人生において今まであり得なかった事だった。
それに教会を追放されたからという理由で白眼視されることも叩き出される事もない。
吸血鬼なのに赤い血を飲まないからといって異端視されることもなく、人の食べ物を食べることを赦され。
ましてやここは新横浜。吸血鬼と人間が同じ皿の物をつつく事など珍しくもなく。
などとクラージィが物思いに耽っているうちにクッキングヒーターのタイマー音が鳴り、鍋の加熱が終わった。
『おっと…ついつい呆けてしまったな…いかんいかん、肝心の仕上げをせねば…』
スマホのアラーム音にふと我に返ったクラージィは鍋の火を止めるとカレールーを割り入れ、全部入れ終わって鍋をゆるりと掻き混ぜたところで再びコンロにスイッチを入れ、
弱火で煮込み始めた。
カレールーの溶けゆく鍋をクラージィは木べらでゆるゆると混ぜながらふと考える。
――あの時代に誰が想像できるものだろうか…吸血鬼に身を変じた者がカレーを作って食べる事を――
嘗ての…悪魔祓いだった頃の私が今の私を見たらどう思うだろうか?
吸血鬼に肉体が変われども赤い血を飲まず、人間の友人や吸血鬼の友人と食卓を囲み、カレーに喜んでいる私を。
「騙されぬぞ人心を誑かす悪魔め!」と、我が身に杭を打ち込もうとするだろうか?
それともあの日の如く、あっさり絆されて私と共にカレーを食べるだろうか?
あの日の――幼いドラルクに絆されクッキーと紅茶をむしゃむしゃと頬張っていた時の――自分がカレーを無心に食べる有様を想像し、クラージィは苦笑した。
《吸血鬼は全て悪である》
《吸血鬼は全て人類の敵である》
《吸血鬼は一体も残さず駆除せねばならぬ》
そう信じていた、嘗てのクラージィは。
しかし現実は。
人間の友人と食卓を囲み、カレーを作って喜んでいる存在の何が地獄の悪魔か。何が恐ろしい吸血鬼か。
…とはいえ、そう思えるのは「今の時代」だからだ――ともクラージィは考える。
悪魔祓いは吸血鬼退治人となり、人と吸血鬼は共存共栄の道を模索している。
赤い血が飲めなければ白くて安い人工血液と人間の食事を摂ればいい――そんな時代だからこそクラージィの存在は…赦されている。
もしあの春の日。転化してすぐ吸血鬼として目覚めていたら。
或は吸血鬼と人間の関係があの時よりも悪い時代に目覚めていたら。
自分は正しい道を自分で選ぼうと思うようになっていただろうか?
人間の食事を美味しいと思う存在になれていただろうか?自分の為にカレーを作りたいと思っただろうか?
人間と友人になれていただろうか?
何より…自分を転化させた存在に対して心からの感謝の言葉を告げる事が出来ただろうか?
クラージィが自らの問いの答えを求め始めたその時。傍らのスマホからRineの通知音が鳴り響いた。
送り主は吉田だった。
【ただいまー】
【もしかしてクラさんカレー作ってる?】
突然の吉田のRineにクラージィは驚きつつも【ハイ!】と書いて即座に返信した。
【もし良かったら僕もごちそうしてもらっていいかな?】
クラージィは迷わず【よろこんで!お待ちしております!】という文面と共に可愛い猫が「OK!」と親指をサムズアップしているスタンプを添付し、返信した。
『…ん…待てよ…ヨシダサンがいらっしゃるなら…』
クラージィはふと思い立ち、
【みきさん、もうすぐ帰れそうですか?】
【私、今日初めて一人でカレーを作りました!】
【もしよければ、私とよしださんと3人でカレー食べませんか?】
と、三木にRineを送った。
【俺もクラさんの手作りカレー食べたいです!】
【あと一時間ぐらいで帰れそう…いや!帰ってみせます!】
程なく帰ってきた三木からのRineの文言にクラージィの顔が綻び、即座に三木に【よろこんで!】という文言と共に
可愛い猫が「お待ちしております」と敬礼しているスタンプを送り返した。
『よし!これであとはミキサンとヨシダサンをお待ちするだけだな…お二人の食器はこれでいいとして…ん…?』
クラージィはふとキッチンの一角――炊飯器のある区画――に目をやり、
『…しまった!肝心なことを忘れていた!しくじった…私よ、何と愚かな!!』
と、クラージィは天を仰いで叫び、スマホを手に取り大慌てで吉田と三木とのグループRineに、
【ごめんなさい!私はカレーだけ作ってごはんたく忘れてました!】
【ごはんたけるまでお待ちください!】
と入力した。
ほどなく二人から
【よくあるはなしですドンマイ!】
【あせらなくてだいじょうぶミキよ~】
と、Rineが返ってきた。
『うう…本当にお二人は優しい…』
クラージィが二人の優しさに浸っていると、再び吉田からRineが届いた。
【せっかくだからその間にかんたんなサラダ作ってますよ~】
【ごはんたけたら持っていくから教えてね~】
程なく、次は三木から
【じゃあ俺は何かスイーツ持っていきますから待っててミキね~】
とRineが送られてきた。
クラージィは二人に「ありがとうございます!」とRineを送ると、改めて台所に戻り米を大量に研ぎ始めた。
一時間後。炊飯器のアラームが鳴り、ごはんが炊けた事をクラージィに伝えた。
クラージィは早速炊飯器の蓋を開けるとごはんをしゃもじでざっくりと混ぜ、即座に三木と吉田とのグループRineを開き、
【ごはんたけました!いつでもおこしください!】
と送信した。
即時に二人から【OK!】とRineの返事が到着し、程なくクラージィ宅の玄関チャイムが鳴り響いた。
「こんばんはクラさん!ごちそうになりに来ましたー…あ、これお土産。さっき作ったサラダ。」
「おじゃまするミキよ~。…わー、いい匂いですね!」
「オ二人共イラッシャイマセ!オ越シ頂キ感謝感激雨霰ニゴザイマス!」
「本当日本語お上手になられましたね…あ、これそこのヴァミマで買ってきたロールケーキです。なんか有名パティシエとのコラボらしいんですが。」
「ミキサン、ヨシダサン本当アリガトウゴザイマス!カレー、スグ準備出来マスノデ少々オ待チヲ!」
クラージィは吉田から受け取ったサラダを小鉢に取り分け、三木が持ってきたスイーツを冷蔵庫に一旦しまうと三人分のカレー皿にごはんとカレーをよそい、
カトラリーと共にトレーに乗せ二人が待つリビングへ向かった。
「オ待タセイタシマシタ!カレート、ヨシダサンノサラダ、オ持チイタシマシタ!」
クラージィの到着を待っていた三木と吉田に笑顔が広がった。
「おお!ついに来たねえクラさんのカレー!」
「すごく美味しそうに出来ましたねクラさん!早速頂きましょうか!」
「ハイ!スゴク食ベタイデス!デハ早速…」
その時クラージィは、はたと何かを思い出し口ごもった。
「…ア…申シ訳ナイ、ソノ前ニ…」
と、クラージィは両手を静かに組むと呼吸を整えてゆっくりと目を閉じ、嘗て使っていた言語で何らかの文言を唱え始めた。
それは彼が教会から追放された後も食事の前には必ず行っていた行為――食前の祈りだった。吉田と三木は祈りを捧げるクラージィを暖かく見つめていた。
「失礼イタシマシタ、オ二方…デハ改メマシテ…」
「「いただきます!」」「イタダキマス!」
手を合わせ合掌する三人の挨拶が食卓に優しく響いた。
三人は揃ってスプーンを手に取り、カレーに口を寄せる。三人とも最初は無言で、ただ美味しさに満たされた表情が広がっていた。
口の中に広がるコクと旨味、そして後から追いかけてくる穏やかな辛味に三人のスプーンを運ぶ手がどんどん早くなっていった。
「オ二人共、イカガデショウカ…」
恐る恐る、クラージィが二人に問いかける。
「うん、美味しい!これぞ日本のカレーって感じのカレーだよクラさん!」
「美味しいですよクラさん!本当お料理も上手になられましたね。」
「アリガトウゴザイマス!本当嬉シイ!…ア、ヨシダサンノサラダモスッゴク美味シイデス!」
「本当だ、吉田さんのサラダも美味しいですよ!材料は千切りの人参と…あとはレーズンとリンゴ?ですか?」
「んふ、二人共の口に合って良かった。カレーって甘めのサラダが合うからね。人参とレーズンとリンゴを甘酸っぱいドレッシングであえてみたんだけど。」
「私モコレ作ッテミタイ!ヨシダサン教エルクダサイ!」
「オッケークラさん、また今度一緒に作りましょう。三木さんも一緒にね。」
「え…俺もいいんですか…?ありがとうございます!…ところでクラさん…」
「ハイ何デショウカミキサン?」
「すいません…おかわり貰っていいですか?俺、今日は仕事場から直帰だったんで、正直すげえ腹ペコで…」
「心配御無用!デス!ゴハンモカレーモオカワリタップリゴザイマスノデ!」
「本当?じゃあ僕もおかわりもらっていい?」
「皆様御遠慮ナク!私モオカワリスル気Maxデス!」
カレーの宴は寸胴鍋と炊飯器の底が見えるようになるまで続いた。
「トコロデヨシダサン」
「ん?どうしたのクラさん?」
カレーを平らげた後。
食後のデザートとして三木の持ってきた苺と生クリームのロールケーキをクラージィの淹れた紅茶と一緒に食べながら、クラージィは吉田に問いかけた。
「ナゼ私カレー作ッタ事、分カッタデスカ?」
「ああ、それね。クラさん台所の換気扇つけてるでしょ?だから帰ってきた時、このあたりカレーのいい匂いがすっごく漂ってたの。
もしかしてクラさんがカレー作ってたのかな…と思ったら急にカレーが食べたくなっちゃって。ごめんね急に厚かましいRineしちゃって…」
「何ヲ仰ル!私、大好キナ、ミキサントヨシダサンノ、オ二人来テクレテトッテモ嬉シイ!」
クラージィのまっすぐな言葉に吉田と三木は打ちひしがれた。
「…ありがとうねクラさん。…あれ?何だか…涙が…?」
「…俺もです吉田さん…クラさん…本当…ありがとう…ございます…」
「ドウシタ?何故二人共泣イテイル…?私何カワルイコトシタ…?」
「ううん、クラさんは何も悪くないんだよ。ただね…この年になるとストレートに好意を伝えられる事が本当に無くなっちゃって…ね。涙腺が…」
「多分俺もそうです…だからクラさんは悪く…ありま…せん…」
「?」
涙を堪え俯く二人をクラージィは不思議そうに見つめていた。
「それにしても。明日あたりこの辺、みんなカレー作るんじゃないかなあ。」
「?ナンデ?」
クラージィは吉田に問いかける。
「さっき吉田さんが言ってたでしょう、クラさんが換気扇つけてたからカレーの匂いがこの辺りすごかったって。
で…カレーはね、伝染るんですよクラさん。どういう訳か俺にもよく分からないんですけど。」
「カレー…伝染ル?…ウム…確カニヨク分カラナイ…」
吉田に代わりクラージィの問いに答える三木の言葉にクラージィは首を傾げた。
「あ、そうそう。カレーの鍋、クラさんもう洗っちゃった?」
「エット…マダ洗ッテイマセン…スミマセン…」
吉田に叱られたと思ったのか、クラージィの長い耳が少ししゅんと垂れた。
「違う違う違う!怒ってるとかじゃないから!洗ってないとしたら、ちょっと面白い事が出来るかなあ…と思っちゃってさ。」
「面白い事?」「ドンナコトデスカ?」
吉田の意図が分からない三木とクラージィは首を傾げ、顔を見合わせた。
「クラさん、ちょっと鍋見せてもらっていい?」
と、吉田は台所に向かった。
「うんうん、この位あればいけるな…よし!」
三木とクラージィが不思議そうな顔で見つめる中、吉田は寸胴鍋を持ってリビングに戻ってきた。
「えー三木さんクラさん、突然ですが近日中にみんなで料理を作るオフ会をやりたいと思います。材料は…これ。クラさんの寸胴鍋にこびりついてるカレーです。」
「?」
「??」
吉田の突拍子もない発言にきょとんとなった三木とクラージィを気にせず、吉田はさらに続ける。
「もちろん材料はこれだけではありません。この後この鍋に蒸かしたじゃがいもを投入します。
そしてこの鍋の中でじゃがいもを潰しながら混ぜて、形を整え…小麦粉と卵、そしてパン粉をまぶし…油で揚げます。」
「…それって…」
「…マサカ…」
三木とクラージィは固唾を呑み、吉田の言葉に聞き入っていた。
「そう!…カレーコロッケです!」
吉田の堂々たる宣言に興奮する三木とクラージィだった。
「なるほど!」
「残リノカレーニソンナ使イ方ガアロウトハ…流石ヨシダサン!」
吉田は更に続ける。
「しかもただのカレーコロッケで終わらせる気はありませんよ!我々のオフ会で作るカレーコロッケは…そう、分かりますね?」
「「「巨大カレーコロッケ!!!」」」
三人の唱和がリビングにこだました。まさしく三人の心がひとつになった瞬間だった。
「しかし吉田さん面白い事思いつきますねえ。」
「僕が思いついたわけじゃなくて昔テレビでやってた事の受け売りだよ。昔一度やってみたら結構美味しく出来たから、今回もやってみたいと思ってね。」
「カレー…ナクナッタカト思エバコロッケニナル…無限ニ食ベラレル…」
「んふ、クラさん…そう。カレーは無限なんですよ。具材を変えてもよし、残ったら別の物に変えるもよし。無限の可能性を秘めてるのですよカレーは!」
「吉田さん、それ言い過ぎ。またクラさんに変な言葉教えるつもりですか?」
そして三人は次回オフ会の日程を決め、吉田がクラージィの寸胴鍋を一旦預かって帰るという事でひとまず今日のところは解散という事になった。
クラージィは三木と吉田を玄関まで見送り、あとは静寂が残った。宴の後の部屋は寂しい。例え二人が壁一枚二枚隔てただけの所にいたとしても。
クラージィにとってもそれは例外ではなかった。
クラージィは後片付けをしながら、今日のオフ会の事、そして吉田からRineが来る直前の事に思いを馳せていた。
――カレーは美味しかった。ミキサンやヨシダサンと一緒だったせいだろうか。
またカレーを作って食べたい。ヨシダサンの仰るように今度は具材を変えてみたいものだ。どんな味になるのだろうか。
そして――何故か無性にノースディンと話したくなってきた。
そう思ったクラージィはすぐさまスマホを取り出し、ノースディンに電話をかけていた。
ただ一度のコール音の後、ノースディンの声がクラージィのスマホに聞こえてきた。
『…久しいなクラージィ。』
『急な電話ですまぬノースディン、今電話しても大丈夫か?』
『構わぬ。どういった用件だ?』
『いや、用と言うほどではないのだが…今、無性にお前と話したくなってな。すまん、迷惑ならばすぐ切るが…』
『迷惑な訳がないだろう!…あ…いや、すまん。クラージィ、お前ならば何時如何なる事でも私は歓待する。遠慮は要らぬ。いくらでも連絡するが良い。』
『すまないなノースディン。まずは…何度も言うようだが改めて。私をこの世界に救い上げてくれて、本当にありがとう。今日はこれを改めてお前に伝えたくなった。』
『…………!!!!』
電話の向こう側で何かが転がり落ちるような音がクラージィには聞こえたような気がした。
『ノースディン?大丈夫か?何かあったのか?』
『いや…断じて私…では…ない…。多分うちの使い魔の猫か雪だるまが転んだだけだろう…それよりクラージィ…用件は他にあるのか?』
辛うじて威厳を保ったノースディンの呻き声が電話口に響く。もしこの通話が映像付の通話ならば椅子から無様に転げ落ちたノースディンの背後で濡れ衣を着せられ、
冷ややかな視線を主に向ける使い魔の猫と雪だるまの姿がクラージィに見えていた筈だが、今回の通話は音声通話の為ノースディンの名誉は何とか守られた。
『うーむ…積もる話もある事はあるのだが…思ったのだが、電話では何となく話しそびれる事も多い気がしてな。
お前さえもし良ければ近日中に何処かで久々に直接会わぬか?新横浜のカフェや食事処でも良いし、片付いていない上に少々狭いが我が家でも構わぬが…』
『…良ければ我が邸宅に来るか?私と使い魔たちがお前を歓待しよう。紅茶とスコーン、あとお前の口に合うかは分からぬが食事も用意する。約束しよう。』
『良いのか?私から話を振っておいて言うのも何だが、私の為にお前の手を煩わせてしまうのは…』
『煩わされてなどいない。私はお前を我が家に招待したいからそう言っただけだ。お前が気を揉む必要は全くない。』
『そうか…すまぬ…いや、ありがとうノースディン。では私は遠慮なく招待されよう。』
『では早速日程を決めるか…お前の都合の良い日ならいつでも構わぬぞ。…それと。先程食事を用意すると言ったが。』
『ああ、確かに。』
『もしお前が何か食べたい物があれば言ってみなさい。お前の要望ならば私は万難を排し応じるつもりだ。』
『いいのか?そうか…それでは…』
『何でも構わぬぞ。如何なる高価な食事であろうと珍しい食材であろうと我が力の全てをもって手に入れてみせる。』
『じゃあ、カレーが食べたい。』
『…何て?』
その後ノースディンとクラージィは会う日程を決め、取り留めのない話を交わし合った後電話を切った。
そしてクラージィはリビングのカレンダーに三木と吉田とのオフ会の日程とノースディンの邸宅を訪ねる日にそれぞれ丸印をつけ、嬉しそうに微笑んだ。
『…これが…答えか。多分私は正しい道を選べたのだろうな…』
クラージィはリビングの窓から空を見上げ、眩しそうに笑みを浮かべる。
クラージィの紅い瞳に映る新横浜の夜空は彼を優しく見守るように照らしていた。
※※※※
翌日。
職場からの帰路についていたクラージィは、自宅マンションの近くでカレーの香りが漂っている事に気付いた。
それも一軒ではなく、明らかに複数の家から。
――カレーはね、伝染るんですよクラさん。
三木がそう言っていた意味が漸くクラージィに理解できた。
『そうか…誰かの作ったカレーの香りが私に届き、私がカレーを作り、そして私の作ったカレーの香りが誰かに届き、カレーを作ったのか…
まさに「カレーは伝染る」、そういう事か。これは私がこの街の一員として繋がれた証左…という考えは…ちと傲慢だろうか…』
そんなことをフフと密やかに微笑みつつ呟くクラージィに声を掛ける者達がいた。
「「「モジャモジャのおじさん、こんばんはー!」」」
クラージィが時折この街で出会う、いつも「新」「横」「浜」の文字が書かれたTシャツを着ている小学生三人組だった。
「ハイ、コンバンワー」
クラージィはひらひらと彼等に手を振り、ふわりとした笑顔で彼等に挨拶を返した。
とはいえ三人はクラージィに別段用事があったわけではなくただ挨拶しただけだったようで、クラージィにぺこりと会釈するとそのまま彼等同士の会話に戻っていった。
「うわー、この辺すっげえカレーの匂い!」
「この辺で昨日あたり誰かんちの晩飯がカレーだったんじゃね?」
ソレハワタシデスヨ、とクラージィは三人の会話に割り込みかけたが流石にそれは出しゃばり過ぎか…と思い留まり、口を噤んだ。
「そういえば俺んち、今日カレーだって母ちゃん言っててさ…」
「いいじゃん!新ちゃんちの母ちゃんのカレー、こないだ御馳走になった時すっげえ美味かったし!」
「えー…だってよぉ、うちの母ちゃんカレーを一度にすっげえ量作るからさあ、明日も明後日もカレーだぜ?飽きるって!」
「あ、うちもそんな感じ。たまに焼きカレーとかカレーうどんとかにアレンジされるけど。」
「いーなーバリエーションあって…まあ前とは肉が違うくらいはあるけどさ。あとルーが違うとか。」
――言葉だけだと愚痴に聞えるが、カレーについて語る彼等3人の表情はとても朗らかで明るい。
きっとカレーに纏わる思い出――家族や友達に纏わる思い出――が善きものだからなのだろう。
クラージィは去り行く三人組の背中を優しく見つめる。
――願わくば、彼等にとって…いや、全ての者にとってカレーに纏わる思い出が今までもこれからも善きものであらん事を――
と、クラージィは心の中でそっと祈りを捧げ、家路へとついた。
新横浜の月は変わることなくクラージィを静かに照らしていた。
完(ヌン)