幸せは食卓にあり
いつほ
仕事を終えた三木は、ほどほどに疲れた身体でトボトボと家に続く廊下を歩いていた。玄関に着く手前でポケットから鍵を取ろうとすると、美味しそうな匂いが鼻腔を掠めた。醤油とみりんのお袋の味みたいな匂いだ。隣人であるクラージィの家の前で立ち止まり、匂いのする方へとさらに足を向けた三木は吉田の家で立ち止まる。
「……やっぱりミキね」
特に驚くわけでもなく、淡々と呟いた三木は匂いを嗅いで納得する。隣の隣の住人である吉田は、サラリーマンでありながら普段から自炊するほど料理が好きらしい。しかも、隣人のクラージィと三木を誘い、巨大料理を振る舞ってくれるほど気風のいい男だ。ちなみに、そちらもかなりの腕前で、ある種の才能に溢れていると尊敬すらしている。
あの時の巨大料理は美味しかったなと思い出し、口に涎が溢れてゴクンと飲み込んだ。吉田の玄関の前に立ったままだが、呼ばれたわけでも無いのにと思って帰ろうとしたところ、ガチャリと扉が開いた。
「「あっ……」」
内心動揺しまくりの三木は口を開けたまま固まったが、すぐに何事もなかったかのように振る舞うことにした。
「すいません、何か、いい匂いがしたような気がして……」
「あっ、やっぱり外まで匂いがしましたか? 実は筑前煮を作ってまして。旬の筍をもらったものですから」
「筍ですか? 今が旬なんですね〜」
「そうなんですよ〜。そうだ! 今からパーティーをしましょう! 三木さん、入って入って」
筍の形状を思い出しながら感心していると、吉田から突然家に招かれた。まだ返事をしていないが、お邪魔する前提で話を進められ、このような集まりをするごとに遠慮がなくなっている気がする。
「はーい、お邪魔するミキよ」
軽い調子で返事をした三木は、やっぱり遠慮がなくなってきたなぁと思いながら玄関で靴を脱いだ。そこに一匹の猫が足元にやってきて、手招きするかのように足元に纏わりついている。
「今、ちょうど煮てるところなんだ。楽にしてて」
「あっ、クラージィさんも誘います?」
「もちろん誘ったよ。今向かってるってさ」
スマホをかざして返事を聞いた三木はじっと座っていられず、吉田に手伝いを申し出た。
「やっぱり手伝います」
「そんないいのにって言いたいところだけど、卵の殻を剥いてくれる?」
「お安い御用ミキよ〜」
ゆで卵を受け取った三木はシンクに移動し、吉田の隣で卵の殻を綺麗に剥いていく。殻を剥いた卵をホルダーにセットし、ずれないように固定してからワイヤーを押し込む。綺麗にスライスされた卵を千切りキャベツの上に乗せ、吉田から「ついでにこっちもお願い」とカットされたトマトも乗せてサラダが完成した。子供のお手伝いみたいだが、なんだか新鮮な気分だ。三木は隣でフライパンを見つめる吉田の横顔を見つつ、おっさんが二人並ぶと、同じ間取りの台所はやっぱり狭いんだなと思った。猫がリビングから動かないでじっとしている。
「あっ、それ菜の花でしたっけ?」
「卯の花ね。作り置きしていたからちょうどいいかなって思って。はい、これとサラダもテーブルに置いてくれるかな?」
吉田が冷蔵庫から取り出した深皿を見て尋ねると、訂正されてしまう。素直に聞けば良かったと思いながら手を洗い、すかさず渡された卯の花をテーブルに置きに行く。戻ってから残りのサラダとドレッシングを並べ、吉田が器に盛り付けた筑前煮も受け取った。クラージィの分だけ山盛りなのでとても分かりやすい。猫たちはテーブルに興味がないのか、ゴロンとラグの上で横になっている。定位置に並べた配膳に作ってもいない三木が満足そうに頷き、吉田さんの元に戻って他にないか見に行った。
「他にありますか?」
「あとはご飯ですけど、クラージィさんが来てからにしようかと……あ、RINEだ。着きましたって。じゃあ入れようかな」
吉田が杓子を持って炊飯器を開けた時、玄関のベルが鳴った。
「今出るミキね〜」
三木が玄関の扉を開け、クラージィを家の中へと招いた。吸血鬼らしく、招かれないと入れないのだ。
「三木サン、コンバンハ。オ邪魔シマス」
全身黒ずくめのクラージィは玄関で靴を脱ぎ、マフラーとコートを脱いでいそいそと部屋に入った。猫たちがワラワラとクラージィの足元に集まり、甘えた声で鳴いている。彼らの様子を見つつ、お盆に乗せたご飯を運んだ。すると、クラージィは目を輝かせてテーブルを眺め、いつもの場所に着席する。
「はい、クラージィさんの分」
「アリガトウ、ゴザイマス」
ワクワクして上半身を揺らすクラージィに思わず笑いそうになったが、どうにか堪えて吉田の元へと戻った。待ってましたとばかりにお茶をお盆に乗せられ、溢さないように気をつけてテーブルまで運んだ。
「お茶も置きますね」
皿と皿の間に湯呑みを置き、定位置に座って吉田が来るのを待った。いい匂いの料理たちに、普段は大人しい腹の虫が盛大に鳴りそうだ。吉田は猫たちのキャットフードを用意し、いつもの場所に置いている。
「お待たせ。みんな揃ったし、食べましょうか」
「吉田サン、アリガトウ、ゴザイマス」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それでは皆さん、手を合わせて」
「「「いただきます!」」」
三人で揃って挨拶をし、箸を持ってそれぞれのおかずに手を伸ばした。三木はサラダをモシャモシャと食べている間にクラージィがおかわりと言い、吉田さんが茶碗をもらおうとしているところだった。
「オカワリ」
「入れてくるよ〜」
「吉田サン、イツモ、アリガトウゴザイマス」
「今日もいっぱい炊いたから大丈夫だよ」
ニコニコ笑顔でお代わりを入れようとする吉田に、背後から後光が差しているように見えた。いい人過ぎる。
「ゴ飯美味シイデスネ、三木サン」
「そうですね。クラージィさんはいい食べっぷりですね」
「ハイ! 美味シイ、分カルシテ、嬉シイデス」
クラージィの言葉に、三木は吸血鬼でも人間と同じような味覚があるわけではないことを思い出す。
良かったねぇ、クラージィさん。吉田さんのご飯が美味しくて。
卵を食べてサラダを完食し、小鉢に持ち変えた三木は、ご飯が来るまでワンコのように待てをするクラージィにホッコリ癒されていた。
「お待たせ、クラージィさん」
「ワーイ。アリガトウゴザイマス」
吉田が炊き立てのご飯を山盛りにして戻ってきて、クラージィの前に茶碗を置いて元の場所に戻った。小鉢をモソモソ食べながら、筑前煮の筍を口に入れて咀嚼する。歯応えがありつつ口の中に煮汁がジュワッと溢れ、口の中に広がっていく。旬の食べ物は美味しいなと感動しつつ、静かな室内でみんな一言も発せずに夕食を食べていた。味噌汁を啜る音が時々聞こえて、三木もつられて味噌汁に手を伸ばす。豆腐と一緒に飲むと、スーパーで買う合わせだしよりも濃厚な味噌の味がする。食べたことのない味だったが、とても美味しいと思った。あっという間に味噌汁を飲み干してしまい、残った筑前煮に箸を伸ばす。掴んだにんじんもやっぱり柔らかく、鶏肉に味が染み込んでご飯がさらに進んだ。
みんな夢中で食べてる。きっと、これがお袋の味というヤツなんだろうな……多分だけど。
近づいてきた猫を撫でる吉田をチラリと見た三木は、お父さんだけでなくお母さんみたいだなとも思った。
「ごちそうさまでした」
しっかり噛んで食べたからか、ご飯をおかわりしなくてもお腹いっぱいになった。三人でいるようになってから、かなりの頻度でまともなご飯を食べている気がする。今度美味しいスイーツの手土産を奮発しようと密かに決意した三木は、慣れた手つきで食器をまとめてシンクに運んだ。食器を持ってきたクラージィを巻き込み、二人で洗い物をすることにした。
「クラージィさん、俺が洗うので、食器を拭いて片付けてもらっていいですか?」
「モチロンデス! オ片付ケシマス!」
「えーと……何か悪いね」
「ご飯をいただいたお礼ですから、気にしないでくださいよ」
遠慮がちに皿を持ってきた吉田を押し切る形であったが、気を取り直してクラージィと皿洗いを始めた。スポンジでほどほどの泡を出して皿をいくつか洗い、水で洗い流して空いていた調理台に重ねて置いた。クラージィが水切りをしてからふきんで皿を拭き、食器棚に片付けてから別の皿を拭く。三人分の食器は二人で洗ったおかげですぐに片付き、スポンジを洗ってトレイに戻した。クラージィと横に並ぶと、台所は余計に狭く感じるが嫌ではない。
「助かりました、クラージィさん。もう済んだので戻りますか」
「コチラコソ……三木サン」
鋭い声に驚いて振り返ると、真剣な表情のクラージィと目が合った。
「アマリ、無理スルノハ、イケマセンヨ。デモ、顔色ハ少シ良クナッテマスネ」
不意にクラージィから頭を撫でられ、三木はピシッと固まってしまう。知らない間に心配させたこともだが、仕事をセーブして体調が良くなったことにも気づかれていたのに驚きを隠せない。すっかり忘れていたが、クラージィは床ドーンをするほど強い元悪魔祓いだったのだ。鋭い観察眼があってもおかしくない。
安心したように細めた赤い瞳は、何でもお見通しだと言っているようで、三木は心の中でお兄ちゃんみたいだなと思った。
「あれ? 二人とももう終わった? 食後のお茶でもしようよ。座って待ってて」
吉田も台所にやって来ると、二人してリビングに戻るように促された。クラージィと目配せをしてから大人しくリビングに戻り、素直に座って待った。気まぐれにやって来る猫を撫でたり吸ったりしていると、吉田がマグカップをテーブルに置いている。
「ありがとうございます。あっ、コーヒーだ」
「この間、三木さんからいただいたコーヒーですよ。美味しかったので、みんなでいただきたくて」
そう言われた三木は、以前三人でクリスマスプレゼントで交換したコーヒーの存在を思い出した。五十本入りのスティックコーヒーはなかなか減らないようだ。
「オ菓子モアリマス! 昨日、クッキーヲ焼キマシタ!」
ジャーンと言いながらクラージィがカバンから紙袋に入ったクッキーを取り出した。手渡された茶色い袋には綺麗なシールが貼ってあり、あらかじめお裾分けで渡すつもりでいたようだ。
「「ありがとうございます」」
「ドウイタシマシテ。私モ食べマス……」
クラージィはそう言いながら真っ赤になり、明らかに二人よりも大きな紙袋を抱えている。
「気にしなくていいですよ」
「俺らの分も作ってくれて嬉しいですよ」
吉田と三木とで声をかけると、クラージィは照れたままモジモジしてお辞儀をした。
「ソウ言ッテクレルト嬉シイデス」
素直に喜ぶクラージィにほっこりした三木は自然と笑顔になっていた。吉田さんの家に集まると、いつも穏やかな気持ちになっている気がする。ただのお隣さんならこうはならないだろう。
「さぁ、食後のティータイムにしましょうか」
「そうですね」
「「「いただきます!」」」
二度目の食事の挨拶をした三人は、クッキー片手にコーヒーを飲んでまったりするのだった。